群青を変換するパスタマシン

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「物語」の中に生きている男の備忘録

『沈黙』 ~思考を翻訳する~

映画

 

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原作を読んだのは学生時代のことなので、4~5年前でしょうか。いや、もっとかな。わかんなくなってきた。というか、気が遠くなってきたのでやめます。当時、大変に感動したのを覚えています。当時から、「この原作はあの『タクシードライバー』を撮ったマーティン・スコセッシ監督によって映画化される予定!」とは言われていました。ただ当時はそれに続き、「予定だったのだけど、予算の都合で…」とも言われていました。それが時も流れ今年、映画化劇場公開なわけですから。夢を追い続ける重要性がわかりますね。

 

テリー・ギリアムもあきらめないで!(詳細は「テリー・ギリアム ドン・キホーテ」あたりで検索かけてください)

 

 

というわけで、今日は監督マーティン・スコセッシ、映画『沈黙 サイレンス』についての話です。

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原作は遠藤周作によるほぼ同名小説『沈黙』。

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第2回谷崎潤一郎賞受賞作なんですって。知らなかった。

さて映画ですが、前述の通り、監督が映画化を熱望した原作の映像化ということで、大筋はほとんどそのまんまです。

というわけで、上のAmazonから引っ張ってきた『沈黙』あらすじが、こちら。

 

島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。

 

ほぼまんまです。ほんとにまんま。

とは言えふたつ、微妙な違いがあります。そしてそれが、ぼくの意見としては、作品から受ける印象をかなり変えています。「ふたつはなぜ違うのか」「それは作り手のどんな思想のもとになっているのか」「そこから私たちはどう考えるべきか」今回は主にそれについて書きたいと思っています。

 

 

まずはじめに、お話全体の感想。

素晴らしかったです。これ以上は望めないんじゃないでしょうか

原作の冷たく厳しい空気感、人々の抱える闇、そして日本という土地自体が抱える闇、それを映像として表現するための、ロケ(台湾らしいですね)、美術、撮影(アカデミーノミネートおめでとうございます)、音響(音がすごく重要な作品なんですが、全編通して素晴らしかった)、すべてのセクションが素晴らしかった。

キャスト陣も文句なしです。外国人キャストの方々ももちろんですが、せっかくなので日本人キャストに関して。イッセイ尾形さんがやたらフィーチャーされていて、それも当然の熱演っぷりですが、日本人キャストの方々それ以外も皆さん素晴らしかったです。全員素晴らしかったですが、特に窪塚洋介さん。原作内もっとも重要な役どころといっても過言ではないと思うのですが、素晴らしいキチジローでした。

スコセッシ監督の演出も、丁寧で素晴らしかった。彼の演出00年代前半あたりいろいろぶっとんでた記憶があるんですが、最近また地に足着いたものになってきた気がする。

 

全体としては、とても良い映画だと思いました。

 

 

映画と、原作の違い。

 というわけで傑作である原作を丁寧に丁寧に、ほとんどそのまま映像化された今回の映画。

前述の通り、微妙な違いがあります。特に、ラスト付近です。

つまるところですが、ここから先の文章は、ネタバレをかなり含んでおります。

 

~映画~

映画では、まず終盤フェレイラとのシーンが追加されています。原作にも、あの決定的な出来事のあと、彼らが顔を合わせるシーン、あるにはあるんですが、かなり重たい空気の中でしか行われません。

特に、映画においてフェレイラは、ラスト近くであるセリフというかある単語を口にするのですが、これは原作にはありません。そして、彼にこのセリフを言わせる、その意味が、問題のラストカットにまでつながっています。

 

~原作~

次に原作においては、映画ではカットされてしまったある筑後守(イッセイ尾形)のセリフあります。ぼくとしてはこれ、とても大事なセリフなので、ここで引用させていただきます。ロドリゴに向けてかけられるセリフです。

 

 「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」筑後守はつめたい声で言った。「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己れの弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきりと申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう

 

ねえ。いいセリフを書きますよね。

前後のセリフは映画にかなり残されています。なので上のセリフが映画にないというのは、かなりの部分意図的であると考えていいと思います。

 

 

なぜ違うか。作家がこの作品で何を目指したか。

ちなみに違うから、どちらの方が優れているという話ではありません。ふたつはただ違う。そこにおそらく、作家がそれぞれ表現したかったものがあると思うのです。

 

作品を通し、主人公はその地獄遍歴の果て、それまで抱いていた信仰を失い、そして新たなる信仰を得ます。ここに関しては、映画原作ふたつとも一致しています

問題は、この最後の信仰に対して、作品内で批評的であるかどうかです。

 

 

映画では、最後に至っても、主人公たちは信仰を失ってなどいない、それが強調されています。

 

そもそもまず、どうしてスコセッシ監督がこの作品に感銘を受けたのか。それは彼のバックボーンが関係しているのですが、これに関してはおそらく今度評される宇多丸さんが詳しく話されると思いますので、ここではそのほとんどを省略させていただきますが、ざっくり言うと、スコセッシ監督カトリックで司祭を目指していたという過去をお持ちの方ということです。

そして、お話の主人公、アンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴも、もちろんポルトガル人のカトリック司祭です。

 

監督は、自身もまたクリスチャンである身として、作品を通しその信仰を大いに問われ、それでも最後は、そこに信仰が残ることを示されたかったのだと思います。

 

 

それに対し原作では、先ほど引用させていただいた筑後守のセリフが、筑後守の視点のようなものがラスト付近挿入されています。ここで作品内に複数視点が生まれているのですが、まあそれはいいとして。

 

原作の遠藤周作もまた、クリスチャンとして知られていました。

ですが、彼は自身のキリスト教信仰に対して懐疑的なところを抱いていました。要するに、「日本人が抱くようなキリスト教信仰は、本当のキリスト教信仰とは違うのではないか」という疑問を抱いていたのです。そしてそれに言及する別のシーンも、映画の中に残っています。

 

というわけで『沈黙』に関しても、最後まで、主人公と作り手の視点がそこまで同一化することはなく、ある距離が保たれています。

 

 

言語と宗教。思想を翻訳する。

ふたつの違いから何を思うか。

 

さて、ここで話、若干変わりますが、言葉とは。

それが持ついろいろな機能の中のひとつですが、言葉とは、「ある体系化されたひとつの思考様式」です。要するにいうと、言葉とは、「考えているものが形となったもの」とそれだけなのですが、これは逆にも機能し、「言葉そのものの体系的な特徴」が、その人の「思考の仕方」にも影響を及ぼしています。なので、ある言語の話者は、おおむねその言語母体に共通したひとつの思考様式の中で思考することになります。

よく、「英語で話すときと日本語で話すときとで、人格が変わる人」っていますが、それはある意味当然で、その人は英語で話すときは「英語的な思考」をし、日本語で話すときには「日本語的な思考」をしている、ほとんど別人格として話しているわけです。

 

そして次に宗教とは。

このブログのアクセス数で誰かに怒られるなんてこともないだろうという油断のもとにつらつらと書いていきますが、それが宗教であるためには、大前提としてそこに「集団」が必要となります。それでもふたり、とかでは、あんま言わないですけどね。そして宗教は、その集団に属する全員が、より高次な方向へと意識を到達させる共同の動作ということになります。動作。動作というか。まあ、動作で。

 そしてこの動作時に、触媒(medium)として用いられるのが「言語」になります。お経や、聖書、さらに原始的なところでいうと、呪文、呪術などがそこにあたります。そもそもの問題として、高次なところへと全員がたどり着くためには、全員が意識下して共通の目的地へとそれを描写できる必要があり、それに言語を使うというわけです。あとは、前述のところでいうと聖書以外には、言語の話者聴者をトリップに誘う音楽的要素も要求されています。

 

というわけで宗教を翻訳するというのは、要するに言葉を翻訳するということになるわけです。そして、宗教の性質が上のもので、言葉の性質がさらにその上に書かれているものになる以上、「宗教の完全な翻訳は、基本的には、無理であろう」ということになります。基本的には。

そもそも何をもって完全な翻訳というのかという問題はありますが。

 

沈黙』のふたつの違いはここに兆しております。

 

ただ同時に、この違いは今回別のものも意味すると思うのです。

「翻訳されたキリスト教」を受容した遠藤周作の書いた小説『沈黙』が、生粋のクリスチャンであるスコセッシ監督が映画化した今回の映画は、主人公がクリスチャンであることを強調したものとなって翻訳再翻訳されてきたわけです。

 

自身のキリスト教信仰に疑問を抱くテキストが、彼が「純粋な」と定義したであろうキリスト教信者の手によって、まさにその「純粋な」キリスト教信仰を訴える作品として戻ってきた。

この事実に何を思うか。

 

 

ここにきて自分が日本語教師だということを思い出しましたので、その立場として話します。宗教以外に関しても、「完全な翻訳」というのは基本的に無理です。改めて強調いたします。これは無理です。どうやってもニュアンスはずれます。先ほど書いた言語の特質がここに関係しています。

ただ、もしかしたら。

 

 

あなたはどうお考えになりますか。

 

 

さいごに。

『沈黙』に関して、ぼくは個人的にあるエピソードを持っています。

 

その日、ぼくは人を待って、川のそばの遊歩道で本を読んでいました。ある穏やかな昼下がりのことで、犬を連れた人や、ご老人など散歩する人たちが、そばをゆっくりと通っていっていました。

自分がページをめくる音に、聞こえないはずの川の流れの音が重なって聞こえてきていました。

その時、突然声をかけられました。それは、「はい」と聞こえました。

 

顔をあげると、自分よりも若い異国人男性二人がそこに立っていて、さきほどの「はい」はもしかしたら「Hey」だったのかもしれないとぼくはそこで思いました。

英語に日本語を混ぜて、彼は言いました。「何してるの」と。

日本語に英語を混ぜて、ぼくは返しました。「本読んでる」

 

自然な流れで、そのうちのひとりと話すことになりました。聞いてみると、彼はアメリカから来たキリスト教の方で、勧誘とまではいきませんでしたが、それに近い話はしたいようでした。

それに関してぼくは問いかけました。まあ今から考えると少し意地悪だったかなとも思いますが。ぼくはこう言いました。「『沈黙』って知ってる?」

 

なんと一人知っていました。すごい。遠藤周作

 

ぼくはそれに関連して、彼にこう問いかけました。

「神を信じたい気持ちはあるんだ。ぼくも救われるものなら救われたいから。でも、神の実在を信じることはできない。なぜなら、ぼくから見た神は、あの作品で描かれている通り、だれを助けもしない、ただ沈黙しているだけの存在だから。どうすれば、神を信じることができるの?」

 

彼は、一言だけこれに答えました。

 

「でも、神はいるんです。」

 

 

最後まで、残念ながらというか、彼としては当然のこととしてというか、どちらがそれ以上お互いに歩み寄ることはありませんでした。ただ、ぼくらが話していたその間も、そこを相変わらず、散歩する人々が通っていきましたし、少なくともそこに沈黙はなく、穏やかな午後の光が射し込み続けていました。